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宝泉ビル1F
A型支援事業所カフェパピーナ TEL0727-67-7511
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うちの事業所の雰囲気、士気が高まっている。いわば経営側と労働側の意思疎通、関係が巧く、円滑に行き出しているのである。前は話し出せば喧嘩していた人同士が、端で聞いていてひやひやはするものの、最後に何とか無事に着地して周りを安堵させるような話し合いが出来ているのだ。これは思うのだが、男に集団主義の意識が浸透しつつあるからではないか?それゆえ、女性もそれに準じ始めているのだ。そして女性同士の意思疎通が万全となれば男の側も影響を受けてコミュニケートが円滑になる。
それゆえ僕もこの事業所で働くのがい面白くなってきた。自分の夢が実現するための展望がわずかながら見えてきたというか?そんな兆しが見え隠れする今日のこの頃である。
僕もこの事業所に勤め始めて三年目だが、苦しい時期もあったが今はほんとずっと継続して居続けてよかったと思う。勿論これで終わったわけでもない。まだまだ「線路は続くよ どこまでも」。年金の額から言っておそらく一生働かねばならない宿命にある。それは僕だけじゃなく、大半の人はそうかも知れない。年金で左うちわの人はごくごく一握りだろう。しかしそういう人が別に羨ましいとは思わない。むしろ逆に生き甲斐をもって一生働き続けることが出来る自分の方が。とさえ思う。
しかし金は貯めなければならない。貯蓄しなければならない。まだ結婚していないが、結婚したい伴侶のためにも、もし子供が出来たらその子孫に残し、受け継いでいってもらうためにも。
今日もN君休みである。彼はいったんこううと考えれば、それが通らなくなると一種のうつ状態になって、落ち込むようなタイプのようだ。それだけ律儀で心配性なのだろう。しかし仕事において当初の予定通り事が運ばず、想定外の問題が起きて思わぬ展開になることは日常茶飯事である。それを一つ一つ解決していくことこそ、仕事と言える。。
それと前にも書いたが、「巧言令色鮮し仁」ということをつとに思う。いくら言葉でいっても相手の琴線に触れて心に刺さらねば、単なるうわごとに終わってしまう。いくら百万言を並べ立てても、相手の右の耳から左の耳へ聞き流されるようならば、骨折り損のくたびれ儲けになってしまう。その意味で言語を並べ立てるばかりではなく、非言語コミュニケーションが殊の外大切である。暗黙の了解(沈黙の共有)、根回し(稟議)、以心伝心というものが大事である。これらがうまく行っていない話し合いは単なる一方的な押し付けか、じゃれあいに終わってしまう。特に現代のような一つの目的に向かって一枚岩になることが少ない、個人主義の時代にはなおさらである。
どうしたら生産的な何かの結論を導き出せる話にできるのか、じっくりと模索してみるべきである。
今日はエンディングノートというセミナーの介護、延命治療編の講義に行ってきた。それで何がきっかけか忘れたがウクライナの戦争の話になった。それでドローンを使った攻撃なので、実際人の手を使った殺し合いじゃないので、人を殺めたという罪悪感はわかず、ゲーム感覚で人を殺すことになってしまう。それで平安時代の源平合戦で、わずか十六歳の少年である平熱盛を断腸の思いで斬った熊谷直実が多くの人を殺めたことを罪に思い、法然上人の下へ出家したと言う話になった。同じ人を殺すことには違いないが、前者は機械によって殺めてしまい、人間が人間を殺したという感覚は希薄になってしまう。
その分刀で人を殺めるのは残虐だが、人間性ということで言えば、ゲーム感覚で殺すドローンで殺すより、ましかもしれない。それ故、一時的怒りや衝動で起こさせるような仕組みにしてはいけないし、もし仮に起こりそうになってもブレーキがかかるような仕組み作りをしなければならない。
それと戦争や戦いというのは男の世界だが、そこにおける女性の果たす力というものにも着目したい。ひょっとしたら第二次大戦以降まだ第三次世界大戦が起こってないのは、民主化による女性の力によるところが最も大きいのかもしれない。ただ一方で男の男らしさがなくなり、戦争が起こりそうになったら、それと勇敢に戦って食い止めようとする力も弱くなくなりそうな気もするが。
明日はエンディングノートというテーマのセミナーで、介護、延命治療編を受けます。その講師は僕より五つ下の既婚の女性なのだが、仏教に帰依しており、終活というものを仏教の死生観を下にわかりやすく解説してくれる。またそのスピリットにとどまらず、エンデイングノート、終活、相続、保険、葬式、お墓そして資産形成など多岐にわたって豊富な知識を持っている。それだから今度の介護、延命治療についてもいろいろな蘊蓄を語ってくれることだろう。
そして自分の知的なことを誇示するというより、胸を打つ熱い涙の方を重視する人で、それと同時にそれに関連づけたお金の使い方を追求する人である。地獄の沙汰も金次第、阿弥陀の光も金次第、金というものには生きていくにおいて、絶えず追われ続けるものである。そんな中で、彼女の講義を聞いていると、なにがしか希望が見えて来るのである。
N君が幻聴がひどいということで休んでいる。僕も思い起こせば幻聴がひどくて、ずいぶん悩まされ困り果てっていた時期があった。最初は車の走る音が、人の声のように聞こえ、一晩中眠れなかった。そして今でも幻聴は時として聞こえるのだが、それは幻聴というより空耳で、むしろ自分のことを思いやった応援してくれるものである。それこそひどいときは、「あほ」だ、「馬鹿」だと否定するような声が聞こえ、それに相手になるのにしばらくの間、何かの手を止めて奇行に走ることもあった。
ある先生が言うにはそんなことばかり思い出していたら、また同じような事態になる可能性があるので、ほどほどにしといた方が良いという。そうかもしれない。ただ今同じように苦しんでいる障碍者の声を聴き、一見彼らが何を苦しんでいるのかわからないゆえ、それを理解すべく、かつてのことを思い出して同苦してやるということも、善行為なのだろう。
しかし一応僕は幻聴を克服した。それ故「この俺を真似ろ。第二の俺になれ」という気持ちで、そういう障碍者には接してゆく。その意味で今の福祉のあ地テーゼ的接し方である。しかし思想とはアンチテーゼを指すと思っている。言ってみれば集団主義が主流の時は個人主義が、個人主義が主流となった今では集団主義が思想と言える。