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2025/05/15

敗北の美学(M.T.)

 今これを書いている位置から、利用者のO君が植木を剪定している姿が見える。僕など全くやったこともない作業である。やはり一応その葉っぱが見栄え良く、かつ枯れないようにするのだから、一つの芸術であり生育だろう。やはりその植木に対する僕らが抱ているものとは比べられないような愛情が必要である。それこそ子供を育てるような愛情のようなものが必要なのだろう。それとそれを眺めて人からかっこよく、粋に思われるような芸術観が要求される。そしてその剪定している利用者は四十代前半で、まだそんな魅力はわからないかもしれない。しかしかっこ良いというより渋い、人間年を取れば出てくるそれをそこに表現する人もいよう。
 それは諫言すれば、カラータイマーが鳴り始め、ピンチに立ったウルトラマン。それを垣間見て僕らは「負けるなよ。ウルトラマン。きっと勝ってください。」と祈る。そういう敗北しそうになる美学というか、そしていつしか悪者をやっつけて、人々を安堵させる。そういう敗北しそうな、だけど負けてほしくないそんな美学というものを僕は懐かしく思う。
 それこそ渋みであって、英語で言えばシック。若いとまだわからない大人の魅力である。
2025/05/12

誕生日を祝ってもらって(M.T.)

 昨日何を隠そう誕生日だった。そして舞ちゃんの勤めるカラオケ喫茶で、お祝いしてもらった。店へ入るなり、ケーキを差し出してくれて、ハッピーバースデーの歌による出迎えである。そういうシーンを何回か見たことあるが、まさか自分にしてくれるとは予想してなかったので、殊の外感激した。それから七十歳の先輩の男の人が、千昌夫の、「還暦祝いの歌」を歌ってくれた。そこに、「気がつきゃなんと 六十年よ 白髪小じわが 我が勲章さ 胸を叩いて 悠々と も一度春を呼ぼうをじゃないか 今日はめでたいめでたい 還暦祝い唄」と続く。特に「もう一度春を呼ぼうじゃないか」というところにぐっと来た。
 それから舞ちゃんにルクププの「ひだまりの詩」を歌ってもらった。これはかつてつきあっていた彼のことを回想して、「あなた愛してくれた あなた包んでくれた それは陽だまりでした」という歌である。そして歌い終わって舞台から降りてきたから、「まるで亡くなった人のことを歌っているようやな」というと、むせびながら、「ほんまやな」と泣いているではないか。もし僕が亡くなったときのことを彷彿して、つい涙を落したのならこんな嬉しい事はない。彼女は僕に惚れてるんだと確信した一シーンだった。
 
2025/05/12

勘違い、誤解(M.T.)

 金曜日にちょっとしたもめ事があった。N君の友達のIさんというものが事業所にやって来た。自作したカードゲームを広め、事業所の絵の巧い女性にそのカードやパッケージのデザインを描いてもらうのを依頼すべく。そして僕もそのカードゲームを実際にやり、よく出来たものゆえ、その体験談をブログに書いてアップした。
 しかしそのIさんにとって見たら、まだ売り出す前の機密情報の漏洩のように感じたみたいだった。僕としては広告宣伝というのはある程度、どういうところが面白いですよ。見所ですよ。期待しといてくださいとすべて明らかにするのではなく、匂わして前評判を起こさねばならない。確かに僕の講評は就業時間五分前に書いたゆえ、文章も練っておらず、その内容の固有名詞だけを躍らせる、稚拙なところもあった。ただ何とか前評判を高めてブームに火をつけたかった。その僕なりの任された親心をわかってもらえなかった。
 それですぐにそのブログは消せということで、消したのだが、いまだにそのわだかまりが残っていて、その間に立ったN君が心労で、今日は事業所に来ていない。
 
2025/05/08

裸一貫、腕一本(M.T.)

 努力至上主義は福祉の宿命である。福祉というのは女所帯。それ故どうしても男が思い切った勇敢なことが出来にくい土壌がある。
 さっき言った千葉真一の「少林寺拳法」という映画で、事故で片腕を失くし、練習もできず、ぐれて酒浸りになっていた弟子がいた。主人公の宋道臣は、弟子に教えるべく、少林寺の技をかけ「あまったれんな」と殴る。そしてプライドを傷つけられかっとなった弟子が、宋に技をかけ一本取る。「やればできるじゃないか?」と宋は弟子を抱き寄せ、また再び弟子は少林寺の練習に励むことを誓う。
 これは昭和五十年の映画とはいえ、こういったこと、たとえ殴るということをしなくとも、このようなことを演出するということが今の福祉国家ではできにくくなっている。勇気一つ、腕一本、裸一貫で、いわば言葉じゃなく態度で示し、教えるということが、極めて困難な世の中となっている。男が女にしてやられているというか?情けなく、惨めに甘んじている時代となっている。
2025/05/08

当たり前故、おざなりに(M.T.)

 今朝朝礼の時に女性の職員さんから、食事する時には作ってくれた人に対して感謝すること。そうすればおのずと食べる前に、「いただきます」、食べた後に、「ごちそうさま」という声が出てくるという訓示を聞きました。もう大人だから当たり前のこととしてわかっているが、その当たり前のことが如何にも当たり前と化して、逆にそういう気持ちを忘れているのでは?という訓示だった。
 そう考えてみたら、当り前のこととしてやってて、当たり前故、逆に新鮮味を失くしてだらけておざなりになっていることが結構ある。例えば掃除。これも五年ほど前からヘルパーさんを頼み、一緒に日曜日にやっている。しかしヘルパーさんがメインとなってやってくれることが当たり前となって、そのことに対する感謝の気持ちが失せている。もっといくらヘルパーさんがやってくれることとはいえ、感謝の気持ちを持って、自分自身も常日頃からヘルパーさんがやらないような箇所を、掃除しなければと思う。その意味で当たり前というのは怖いことだと改めて思った。
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